勝川春章「初午」

WEB版着付け教室

着付け師の登場はいつ頃から?

着物が日常着だった頃は、誰でもできて当たり前だったはずの「着付け」。その技術が職業となったのは、江戸時代の延宝(1673-1680)から元禄(1688-1703)の頃なのだそうです。
注・能楽では装束の着付けは後見が担当します。ただ後見はシテの代役も務められる各流派に所属している役者でもあり、着付け師ではありません。

江戸初期に流行していた名護屋帯(名古屋帯とは異なるものです)は、6cm幅ほどの組紐で、これをぐるぐると腰に巻いて着ていました。
下の浮世絵は当時のファッションリーダーだった湯女たちを描いたもの。着物の柄、帯などから当時の着こなし方がうかがえます。
江戸初期に京都、江戸に出現した新職業「湯女」を描いた作品。湯女は容色を誇り、着飾って酒客の相手をする新しい職業で、その衣装や化粧を町娘が真似をし、それが流行となっていたといいます。
このように古く、細いひものようなもので着物がはだけるのを防ぐためのものでした。
「湯女図」作者不詳(MOA美術館所蔵重要文化財)


帯幅が広くなったきっかけは、人気役者上村吉弥が舞台で披露した吉弥結び。
両端に重しを入れた幅の広い帯をだらりと流す結び方が大流行したのです。 なお現在、一般に「吉弥結び」として知られている結び方とは違い、蝶々結びを長く伸ばしたような結び方が上村吉弥考案のもののようです。(古い広辞苑の挿絵と解説が出典)
当時、帯の幅は五~六寸(約15~20cm)ほどでしたが、吉弥結びの流行で幅の広い帯を求める人が激増。流行が加熱するのは今も昔も同じで「人よりも華やかに装いたい」との願いから、より幅広の、より長い帯が求められ、帯の幅と長さが変化していきました。
文化(1804~1818年)年間には、帯の幅が一尺五寸(現代の帯は八寸が基準)に達したといいます。 あまりにも幅が広くなり過ぎた帯は一人で結ぶのが難しく、着付師という職業が生まれたのだそうです。

江戸時代の帯結び

上の三幅は18世紀の勝川春章の美人画。当時の婦女子を平安王朝の三才媛に見立てた名品中の名品で、江戸好みの髪型や衣裳を伝える重要な資料としても貴重な作品です。
左は清少納言の「香炉峰の雪は簾をかかげて見る」という故事を武家の奥方に映し、中央は武家娘を石山寺で机にもたれて筆をとる紫式部に見立て、 右は「花の色はうつりにけりな いたづらに 我が身よにふる眺めせしまに」と詠んだ小野小町を芸者として描いたものです。
それぞれ着こなし、帯の結び方の違いも興味深いですが、何よりも帯の幅がグッと広くなっていることにお気づきでしょう。

トップの絵は勝川春章「初午図」(大谷コレクション「美の競演-珠玉の浮世絵美人」ニューオータニ美術館パンフレットより

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